六斎日の念仏信仰
六斎念仏の起源は諸説あり、開祖は平安中期の空也上人とも鎌倉時代の道空上人とも云われますが、高徳な僧侶が六斎日に念仏を行ったことがそのはじまりという伝承となっておりますが、その歴史経緯はさだかではありません。
六斎日とは仏教経典(『十誦律』『四天王経』等)では毎月8・14・15・23・29・30日を指し、この日は天から神仏やその使いが下りてきて、人々の行いを監視する日だとされています。よくないことをすれば、現世の寿命が短くなったり、死後に地獄に堕ちたりしてしまうということが信じられていました。ですので、この日に戒律を守ってして慎ましく過ごすことで、人々は長寿や死後の安寧を得ようとしました。
日本では仏教伝来とともに六斎日の思想も伝来しており、斎日には仏塔を建てたり、善い行いをしていたことが『令義解』に記されています。
この六斎日に念仏を唱えて様々な祈願がおこなわれるようになったのはいつのことか定かではありませんが、鎌倉時代の説話『今昔物語集』には、安息国という国(イラン北部のパルティア)では斎日に念仏を唱えたという話があります。
「高野山系」と「京都系」の六斎念仏
南北朝が終わるころには、六斎念仏の名が刻まれた石碑が立てられるようになります。高野山麓周辺には、石塔を立てた村の人々が、長寿を祈り六斎念仏をおこない石碑をつくるようになります。この高野山の麓の村々には、今も六斎念仏が行われており、鉦に念仏の節を荘厳に、ゆったりと唱える非常に美しい念仏がとなえられています。このような、鉦の六斎念仏を「高野山系」とよびます。
京都近郊には、戦国時代には六斎念仏が確認できるようになります。京都近郊でも多くの六斎念仏の集団が結成されたようです。戦国時代の公家である山科言継が書いた『言継卿記』によれば、京都近郊や摂津から、たくさんの六斎念仏衆が京都の真如堂に集まり、施餓鬼の供養をしていたことが知られています。
さらにこのテキストに出てくる六斎念仏は、高野山麓のように鉦のみではなく、太鼓を打ち鳴らして念仏を唱える六斎念仏が行われていたことが知られています。このような太鼓を用いる六斎念仏は京都を中心に行われたことから、「京都系」といわれています。
「空也堂系」と「干菜寺系」
京都では、近世になると、二つの寺院によって六斎念仏が掌握されるようになります。近世初期に干菜寺というお寺によって六斎念仏が支配されます。そして、近世の中頃以降は空也堂が、六斎念仏を掌握しました。なぜ近世中頃になって掌握するお寺がかわったのでしょうか?
「芸能六斎」と「念仏六斎」
六斎念仏は、いずれも念仏和讃を中心に唱えられていたために、今日「念仏六斎」と呼びならわしております。しかし、京都ではこの形態の六斎念仏はほとんど見受けることができなくなっています。
江戸時代になると、六斎日の信仰としての意味より、盂蘭盆の行事としての性格が強まります。さらに、京都では、僧侶の手から離れて能や獅子舞、祇園囃子など当時の京都の流行芸能を、六斎念仏独自の太鼓芸へとあたらしく発達させた全く新しい六斎念仏も登場します。
この様子は、天明七年刊行の『拾遺都名所図会』に「おどけ狂言をまじへて衆人の目を悦ばしむるも三仏乗の因の便りとなるらむか」と記載されています。近世の京都の人びとが、独自の新たな信仰や芸能といった文化を形成していく様子が伺えます。これは「くづし」「六斎踊り」などと様々に呼ばれておりましたが、いま、この形態の六斎念仏の名称を「芸能六斎」として呼びならわしております。
干菜寺では、信仰によって六斎念仏を支配しましたので、このような芸能六斎は受け入れられませんでした。しかし、空也堂は芸能に寛容であり、京都の芸能化した六斎念仏はこぞって空也堂の配下になりました。
現在では、京都の六斎念仏は、ほとんどが「芸能六斎」のみを伝承しております。
関連項目
他の六斎念仏にかんする記事を見る
当講中に所蔵される文献から歴史を学ぶ
六斎念仏の歴史
干菜寺
正式には干菜山斎教院光福寺という。
元田中に位置し、現在は浄土宗の寺院であるが、近世には秀吉より「六斎念仏惣本寺」の名称を名乗ることを許され、洛中外の六斎念仏の末寺や講を束ねた。
空也堂
正式には紫雲山光勝寺空也堂極楽院という。
現在では天台宗に属するが、近世には京都の空也僧の本拠地として栄えた。
慶長に建立された和歌山県かつらぎ町下天野の六斎念仏碑
高野山麓にはこうした古い六斎念仏の石碑が多く残っている。