​上鳥羽の六斎念仏

 京都市南区上鳥羽は、かつて紀伊郡上鳥羽村と呼ばれる農村地域でした。昔より京都市中への入り口にあたるこの村には、数多くの伝承が残されています。刈萱道心の高野山参詣への起点となった刈堂誓祐寺、盛遠と袈裟御前の哀しい物語を伝える恋塚浄禅寺、そして平安時代に、小野篁が冥途へ行き、六つの地蔵を彫ったことに起因する六地蔵。その「四番とばひつじさるの方」に位置するのが鳥羽地蔵尊です。この古い伝承の息づく上鳥羽に伝承されてきた六斎念仏もまた、特別のいわれを現在に伝えています。

 上鳥羽橋上鉦講中は六斎念仏を伝える講集団として発足しましたが、その成立がいつ頃であったかなど、詳細は分かりません。

 当講中に伝わる六斎念仏は、別名「空也堂念仏」とも呼ばれ、歴史的にも空也堂との関係が深い団体です。講における由来の多くも空也上人に淵源を求めております。例えば当講では正式な行事には浴衣ではなく、水干(雑色) を着用していますが、その際の水干の色は空也上人の王服茶の伝承に従がって、茶を連想させる萌葱色を着用するなど、細部にわたって空也上人の伝承の影響をみることが出来ます。

 空也堂の記録である「六斎念仏収納録」には、上鳥羽には橋上以外にもこの地域に複数六斎念仏が行われていたことを記載しています。明治十七年の記録では、「上鳥羽村橋上、同橋浦」とあり、さらに明治40年には「上鳥羽村三組」と記されています。このうち、昭和まで橋浦(橋下)が六斎念仏を継承しておりましたが、現在では継承者不足により廃絶しています。いまは橋上鉦講中のみが上鳥羽で六斎念仏を伝えており、上鳥羽の六斎念仏といえばこの橋上鉦講中を指すことが通例です。

 明治時代ころまでは、組織の名称は一様でなく、「城州上鳥羽上組講中」「洛西上鳥羽橋上講」などとも呼ばれ、さらに空也堂からの免状には、「六斎大導師 上鳥羽橋上講」の称号が付与されています。六斎念仏における大導師とは、天皇家の仏教的送葬儀礼である「焼香式」において、六斎念仏講中の筆頭として「焼香式」に出仕し、導師役を勤めることによる称号です。

 

上鳥羽六斎念仏の伝承 

 

 上鳥羽の六斎念仏は、江戸時代の天明期に刊行されていたことが知られる『空也上人絵詞伝』にかかれる内容に依拠して執行されています。

 また、その他空也を淵源とする伝承を大小保持している。例として、最も厳粛な演目である「焼香太鼓」が、空也の父と言われる醍醐天皇が崩御した折に、土足で内裏に駆けつけ焼香をおこなったことに由来しており、これは空也堂の掌握を受けた六斎念仏が参列を許可された「焼香式」で行われた儀礼に起因します。

 

連項目

孝明天皇の『焼香式絵巻』にも、大導師の上鳥羽講中が登場する。